自分の「研究」の狭さについて

恥ずかしいからカッコつきでしか「自分の研究」なんて書けない。
それはさておき、自分がやっていることが隘路にはまり込んでいるのではないだろうかと常に問うている。自分の目的、生涯のゴール(それ自体も恥ずかしい)のために、こんなことをやっていていいのかという思い。
「統計」を、それ自体を対象に「研究」することがその際たるもの。手段としてで十分。
PK とか PK/PD とかなんてことも手段に過ぎない。それを用いて何をするか。究極的には生命の理解。



ある企業の薬物動態研究者たちが、自分を「探索の」薬物動態とか「開発の」薬物動態とかに分類して考えていた。行き過ぎた分業化を心配する。20 年前は(臨床も含めて)すべて薬物動態だったな。その後、効率を求めて、自己の勢力拡大も求めて、探索段階に意見をするようになっていったその成功体験が「探索薬物動態」なる概念を生み出したか。
細分化しすぎて、その結果としてその(専門)分野内に人が足りない、とかおかしな議論をしていやしないか。
若いうちにどこか狭いところを究めるのはいいことかもしれないけどね。

そんなことを言うなら、もっと以前は薬理も薬物動態もわかれてなかった。薬物動態とは薬理を説明するひとつの手段に過ぎなかった。それが、20 年前の時点では完全に独立を果たしていた。

おっと。今は、「臨床」「薬理」の名の元に薬物動態「も」研究してるな。それはいいことだ。臨床薬理の名の元に薬物動態(のみ)「を」対象とする仕事に私は何の興味もないが。