古代中国語

どうしてこんなにいろんな解釈の余地があるんだろう。万葉集の読みが確定しない、というならわかる。しかしそれでも万葉仮名の読みはかなり確立しているはずだ。
そもそも古代中国語の「読み」あるいは文法がよくわかってないんですかね。語順のルールが今と大きく違うとか。
現代中国語の知識をもってしても古代後は読めないってことだ。漢字の順序といくつかの助辞のみでは解読できない文法事項があるんですね。どこに断絶があったんだろう。

生きるための論語 (ちくま新書)

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一方で思うのは、しようと思えば「読み」は確定させられるのだけれども、それに伴う思想に納得がいかない場合、自分の思想の方向に引きずり込んだ読みをしようとしてるんじゃないか、ってこと。それくらいの「読み」の自由度がある、というのが前提になる。その上で、自分が主張したいように「読む」。これはこれでひとつの古典の読み方としていいですけれど。そして、そういった「イデオロギー」(^^;) から逃れた読みをしようとする人たちも周期的に現れてくる。

こんなことは以前にも書いた気がする。いつも同じ疑問。