今日の本

仏教は,その理論的発展において,一つの大きな疑問に逢着した.(...) あの釈迦牟尼なる聖者は,永遠不滅なる仏性の一つの現れにすぎないのではないか.そして,それが仏性の現れであるとすれば,それは応化身であり,永遠の仏性は法身と呼ばれるべきではないか.(...) しかし,ここに密教は,思い切って,釈迦仏教を否定する.仏の応化身を二義的と考えて,法身を一義的とするのである.
これは,まことに大胆な理論である.今まで法身について,大乗仏教はいろいろ思弁を弄したがそれを一つの理論的な存在,思弁的存在と考えた.その理論的存在,思弁的存在に,密教は実在性を与えるのである.